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今日も他人事

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終幕 河北決戦



黄河と長江。

二つの大河を巡る争いは、次第に終局へと向かっていました。





激戦の中、関羽が張遼を、関銀ペイが夏候惇を、華姫が徐晃を破って処断。

さらに曹操が病に倒れ、三男の曹熊が後継者となったことは、曹操軍の武将達に衝撃を与えます。

一方、南の戦線では、昨年末に孫権を討った趙雲が激戦の末に建業を陥落させた後、張飛、馬超、董白ら騎馬軍団と合流。

破竹の勢いの下に趙雲が呉を、続けて会稽攻略を果たしたことで、孫権軍は長沙郡を残すだけとなりました。

劉備は楊州統治を若手将校らに、長沙攻略を第四軍に任せて、劉備軍の主だった武将を黄河へと結集させます。

その中には、孫権の死を契機に孫権軍を去った黄忠、孫権の死後も再び劉備の下に戻とうとした孫尚香の姿もありました。

劉備は関羽、趙雲、関平を先鋒にトウガイ、ホウ統、徐庶、黄忠、孫尚香、華姫、張飛、馬超、董白ら総勢十五万の大軍をもって進撃。

黄河を渡渉して河北へと上陸した劉備軍は、曹操軍の必死の抵抗を破って孟達、許猪、夏侯威らを討ち取り、平原を攻略します。

河北上陸を果たした劉備軍は平原を根拠地として北の南皮、西のギョウへと軍勢を分けます。

北の南皮を守るのは曹操の孫・曹叡であり、祖父譲りの軍略と豪胆をもって劉備軍を迎え撃とうと試みますが、関羽、張飛らの勢いには敵わず、南皮は陥落し、曹叡の首も刎ねられます。



一方、西のギョウでは劉備軍の先鋒・関平が曹操軍の夏侯淵らの反撃に会い、半壊しながらもカク昭を一騎討ちにて討ち取ります。



翌年221年。乱戦の中、文ペイと孫尚香が夏侯淵を捕らえて処断し、劉備軍はギョウ攻略を果たします。

残す曹操軍の拠点は既にほとんどが一万程度の守兵しかおらず、主だった武将の大半も討ち取られていました。

劉備は華姫、趙雲、トウガイらに三万の兵を与えて進撃させ、襄平、晋陽を陥落させるとともに、本隊十万の総攻撃で薊を、そして北平の攻略を果たします。

この時、第四軍の活躍によって長沙は攻略され、孫氏が降伏したことで孫権軍も滅んでいました。

221年9月、長きに渡る戦いの末、遂に天下は統一されたのです。

・・・その後

劉備は許都へと凱旋し、全土に戦の終わりを布告。

諸葛亮を丞相に、関羽を大司馬に定めて民政と軍事を統括させるとともに各地に武将らを派遣。



諸葛亮は曹操の残した様々な革新的な施策を受け継ぎ、旧式化した漢王朝の制度を一新し、新たな国造りに懸命に取り組みます。

国力を蓄えた漢王朝は張飛や趙雲、華姫らを派遣し、各地の異民族も討伐してその勢力を拡大。

こうして漢王朝再興を果たした劉備は、高祖・劉邦、世祖・劉秀と並ぶ太祖として祭り上げられ、八百年の長きに渡り、漢王朝を延命させ続けたのでした……。


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